遊備忘録

ここで泥を吐き出すことによって日常生活を保つことができます

女と外見

 

一週間で頭がごちゃついてきたので、今日はまた整理する

 

 

今回のテーマは性差と外見について。

 

よく「女と男は一生分かり合えない」と言ったようなことを耳にするが、

これは正しくもあり間違いでもあると思う

 

 

正しくは「他人と本人はわかり合えない」である

 

 

大きく男と女という区別で分ければ当たり前に違いが出る

 

しかしこれは「文系と理系」「アメリカ人と日本人」「人間と蛙」

と生まれ持って異なる性質を区分すれば差異が明確化されるといった

粒度の大小の話であって、少し誇張され過ぎている様にも感じる

 

まあ一旦その話は横に置いておき、今回は「女」について考えていく

 

 

 

私は小さい頃、”ボーイッシュ”に憧れていた

 

スカートよりズボン、ロングヘアよりショートヘア、大人しい子よりも喧嘩に強く明るい子に憧れを抱いていた

 

「かっこいい」が最上級の褒め言葉であった

 

 

実を言うと、高校生まで”女を出す=汚い”と言う、トラウマのような過激な思い込みがあった

 

環境の影響も大きくあったとは思う

 

そして大学二回生くらいからようやくその呪縛から解放されてきた

 

女という性を否定することは自分自身の否定にも繋がる

 

そして生まれ持ったものは有効に使っていく方が効率的に生きられると感じたからだ

「女」という性別も生まれ持った立派な武器である。

 

私は大学二回生くらいから自分の中の女性らしさを実感し出した

 

具体的に言えば、異性と同性において今までは感じなかった違和感を感じる様になった

 

 

今思えば昔からフリフリのレースや宝石、ぬいぐるみやピンク色が大好きだった

その事実をずっと否定して偽ってきた自分に敬意の念すら感じる

 

しばらくは目を背けていたけれど、これからは女で生まれたことを純粋に楽しみ、

利用できる事は徹底的に活用していこうと前向きに捉えられている(決して枕営業とかいう意味ではない!)。

 

 

 

そして多くの女性にとって大変なことは”外見について”ではないだろうか

 

かくいう私もそのうちの一人である

 

私は写真が嫌いだ

 

厳密に言うと自分の顔が写っている写真が。

 

21にもなっても未だに自分の顔を受け入れられない

 

昔よりもマシにはなってきたと思うが、まだまだコンプレックスの塊である

 

ここまでの人は少数派かもしれないが、自分の顔を見る度にしばらく絶望を繰り返す

 

これは自分を卑下しているわけでもなく、「そんな事ないよ」待ちでもなく、本当にこう感じてしまう

 

これは自分の治したいところの一つだ

 

自分のことが嫌いなわけではない。むしろ大好きだ。

 

しかし外見だけはまだ受け入れられていない。

 

 

顔以外にもスタイルだってそう

 

服を綺麗に着るにはいわゆる「カリカリ」な状態が美しい

 

ボディポジティブだって言う意見もあるが、自分が美しいと感じるものは仕方ない

 

 

「痩せたい」と言う願望と「食べたい」と言う欲望のぶつかり合いは非常に厳しい

 

ストレスが加わりさらに欲求が増大する

 

 

受験期に私は過食症になった

 

気持ち悪いのに頭が真っ白になり、食べ物をもはや詰め込むという作業と化す

 

全ての作業が完了すれば喉に手を突っ込み、絶望感に襲われる

 

まるで地獄だった

 

発作の様に起こり、治し方もなく誰に相談すればいいのか分からなかった

 

別にこのエピソードで受験辛い自慢大会がしたいわけではない

 

受験という外見の全く関係のない人生の超重要な試験期間においても

外見というものに支配されていたのだ、と今になって思う

 

 

これからも私は外見に縛られて生きていくだろう

 

けれどコンプレックスは上手く付き合っていければいいモチベーションにもなる

 

なんなら大好きな服の入り口だってそうだ

素敵な服を着れば、自分ではない誰かになれる様な気がして勇気をもらえる

 

 

いい距離感をこれからも模索して、気を張り過ぎずに生きていこう

 

とは思える年齢になった。

 

これからもますます生きやすくなるのではと期待に胸を膨らませている

 

早く大人の女性になりたーい.

 

2021/08/20