遊備忘録

ここで泥を吐き出すことによって日常生活を保つことができます

死にたい朝に読む文字

土曜

 

天井が見える。

また生きてしまっている。

スマホを見ると時刻はすでに11時。

 

このまま目が覚めなければどれだけ良かったことか。

 

 

脳みそは使い物にならない。

手を伸ばせば辿り着く現実逃避の世界になす術もなく引き篭もる。

一生作ることのないレシピ動画。

あったこともない誰かの食事。

好きだった芸人の切り抜き。

 

ただ風景として時間とともに流れていく。

 

 

16時。

気づけば4時間だっていた。

うっすらとした罪悪感を振り払うために外へ出る。

 

脳は音楽でどっぷり漬け、せめて新鮮な空気を送り込む。

 

景色を見ているはずなのに、なぜか見えない。

 

目で見ている景色が脳みそに信号としてうまく訳せずに、

景色がただただ流れていく。

 

自分が見ているのではないような感覚。

 

歩道の信号が青になっても、それを意味へ訳すのに時間がかかった。

 

この世に生きているはずなのに、全く脳みそへ信号が送られてこない。

 

おかしい。

 

これは私の身体なのか、五感が機能していないみたいだ。

 

私の意識はここの中にいない。

 

どこにいるんだろうか。

 

 

 

18時。

 

何か食べよう。

手っ取り早く得られる幸福を。

その食事はもはや自慰行為の一種である。

 

食べた後に必ず来る、

不必要な食事をとったことに対する罪悪感と希死念慮

 

 

幸福と希死念慮は常にハッピーセットなのである。

 

 

 

22時。

シャワーを浴びてベットに入る。

 

髪の毛を乾かす力などあるわけもなく、

びちょびちょのまま枕に敷いたタオルに髪を押し付ける。

 

 

スマホの世界に脳を漬け、時が止まったまま気づけば3時。

 

 

今日も死ねなかった。

明日はどうか来ませんように。

 

 

 

――

 

 

目の前にゴールテープが見える

 

最後の力を振り絞って駆け抜ける

 

ゴールと同時に倒れ込み、よくやったと安堵した。

 

呼吸が落ち着いてきた。

 

ゆっくり立ち上がると、再びピストル音が聞こえて反射的に走り出す

 

 

その繰り返しにうんざりして、一度レースから離れると

体の訛りが気になって不安になり、気づけばまたスタートラインに立っていた

 

 

誰かそのピストルを私の脳に打ち込んでくれないだろうか

 

 

――-

 

 

「頑張ればきっといいことがある。」

 

別にないね。

 

 

――-

 

自分の感情が分からなくなった。

 

悲しいのか苦しいのか楽しいのか嬉しいのか。

 

笑えなくなった。

 

心に錘がのしかかり私の感情を全て潰している。

 

この錘はどうすれば取り除けるんだろうか。

 

びくともしないこの重量は何から作られているんだろうか。

 

鉄?それとも

 

 

 

ーーーーー

 

生きるってなんでこんなにも難しいのだろう

 

周りを見渡せば、みんなここまで戦っているようには見えない。

見えないだけかもしれないし、そうではないかもしれない。

 

むくむくと湧き上がる死への憧れと日々闘い、

それをなんとか殺して今日を生き延びる

 

 

なのに次の朝はまた同じ姿で私の前に現れるのだ。

 

 

モグラ叩きのような日々に疲れ

もうゲームオーバーになれないかと考えながら生きることはもはや生と呼べるのだろうか

 

 

休みたい。

休みたいという願いは死と引き換えになるほどまで重いものなのか?

 

ひと時たりとも休んではいけないという情もクソもない現実。

 

ああどうか誰か私を殺して。

死ぬまで止まらないタイマーを止めて。

 

頭の中が狂気に蝕まれているのに。

その狂気を抑えて生きなければならない世の中は異常だ

 

もう力が残っていない。

 

自分が死にたい時に自分を殺すエネルギーが残っていない

 

 

死を悲しんでくれる人と助けてくれる人は必ずしも一致しないのだ。

 

 

――――――

 

「人生で一度も希死念慮を味わったことのない人間は信頼できない」

 

 

友人は明るい日差しの賑やかな公園でそう言った。

 

 

 

なんて清々しい日なのだろう。

 

 

ーーーーーー

 

誰かのための私を演じる。

 

やめられないのは自分の臆病さのせい。

 

 

この世界で私1人だけになれば、本当の私になれるかもしれない。

 

 

そして何の喜びもないまま死んでいくんだろう。

 

―――――――

 

交通事故の後、意識が戻った。

 

「なぜ、死ねなかったのか?」

 

 

そう思いながら意識が朦朧としつつ道路の真ん中で動く気にもならない。

 

 

このまま寝転がっていたら轢かれて死ぬのではないかという、ぼんやりとした恐怖と期待に胸を寄せる。

 

 

今までで1番気持ちのいい睡眠だった。

 

 

ーーーーーー

 

「暗い話はやめようよ」

 

 

「そうだね笑」

(私は別に暗いと思ってないんだけど)

 

ーーーーーー

 

 

 

死にたいと願った。

 

それを友人に伝えた。

 

 

きっとその時は意識があまりはっきりとしていなくて、

誰にいったかは覚えていない。

 

 

 

「じゃあ死ぬ前にお金全部使い切らないとね」

 

 

 

 

これが私のバイブルになった。

 

 

ありがとう、私の素敵な友人へ。

 

ーーーーーー

今、この文章を読んでいるあなたへ。

 

 

死にたい、と思うことはこの世の中でタブー視されている。

 

私たちはいつも居心地が悪く、ただ幸せになりたいだけなのに。

 

 

死にたさを共有することすら自由にできない。

 

 

だから私はここで吐き出しているのかもしれない。

 

 

誰かを救いたくて、自分を救いたいので。

 

 

「死にたい」なんていっちゃダメだよ、という忠告こそ無意味なものはない。

 

「おしっこしたい。」「ダメだよ。」

みたいなもんなのに。

 

私たちはいつでもその言葉を言う権利があるというのに。

(相手にとってあなたの「死にたい」が傷つく場合を除いて)

 

何にもわかっていない。

 

でも仕方ない、種が異なっているのだから。

 

 

結局、この世は孤独で埋め尽くされている。

 

いくら家族が仲良くても

大切な恋人がいても

仲の良い友人がいても

 

生かすのは自分自身しかいない。

 

自分のために食べて

自分のために寝て

自分のために考える

 

 

究極の利己主義でやっと私たちは生き延びることができる。

 

だからきっと”死にたい”を持っている人は、

自分のために生きていない人が多いのではないだろうか。

 

 

だから私は恋愛がトリガーとなる「死にたい」だけは絶対に許さない。

 

 

自分のために生きろ。

1人でいるよりも幸福になれるから2人でいるのに、

なんで不幸になっているのか意味がわからない。

それだけは許さない。

 

そして刹那の感情にとる突発的な死も怠惰だ。

 

死の感情と2年は向き合え。

 

それで自分のために悩んで自分のために死ぬのなら仕方ない。

 

 

 

ただ死ぬ時は持ち金を使い切ってから。

 

 

それをやり切るまで死ぬな。

 

 

じゃあまた今日も生きようか。